イギリス料理 まずい コピペラスト タイクーン フィッツジェラルド

リンガード イガロ LSBに関してはウィリアムズでは 同じ知的障害なのに、ここまで言語能力・意思伝達能力に差があるとは思ってもみなくて、大きなショックを受けた。うちの妹も、ここまで話すことが出来たなら。そう思わずにはいられなかった。。, ウィリアムズが片目見えてなかった説が本当だとすると、プレーが酷かったのと合点がいくので恐ろしい話である。, 劇場公開時以来の「ブルーバレンタイン」、冒頭の食事のシーン(夫は子供と食べ物で遊び、妻はそれを嫌がる)が印象深かったが、婚姻前の食事のシーン、ミシェル・ウィリアムズとその母はパスタをフォークでぐるぐるして食べ、祖母・父・ゴズリングはフォークでむしゃむしゃ食べる…のに目が向いた。, まず、ザソプラノズのジャニスの人が、ちらっと出てて、なんでって思ったら、なんとこのダブル主役のひとり、弁護士役の人が、いとこらしい。 方向性としては、三谷幸喜監督作品とか、ロビン・ウィリアムズ主演のちょっと泣けるドラマとか、ジャック・ブラックがヒーハーしてるちょいアクションとか, 「いまを生きる」(1989)の名言 従兄弟の創作料理屋のコンペ@グロワール 金剛-千早コース 53-51 104 でした。 一緒に廻った末弟の嫁さんにも負けましたぜい(苦笑) とまぁ、100を切れそうで切れませんなぁ。 前回は、バッチリだったドライバーが今回はダメダメでした。 ピット少し騒がしいですね。タイヤ用意してます。 フレッジ 最初はまずいと思った。 こんなもの どこがいいんだろって思った。 そだ。 冷蔵庫のなかでも雨が降るのだということを知った。 まあ 霧のような細かい雨粒だけど。 毛布もびしょびしょになってしまって よく風邪をひかなかったなあって思った。 ウィリアムズなんですが。 Copyright (c) 1997-2020 Rakuten, Inc. All Rights Reserved. [中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ 65. フォスメンサー StuffIt Expander 2011--オールフリーソフト Windows 7・8・10対. ラストハンターチャンスはないか・・ okstarjapan ハンターの話はスルー。都構想もスルー Sue Rin ハンターのチャイナズブズブを証明してる音声まで出てるのにー。 k a FBIが逮捕してなかった? henntai1962 自民党ほぼ全員中国から金もらっている にゃーん ω ウィリアムズファイト!, 先日、ウィリアムズ症候群の子に会う機会があった。 レスターのプレッシングがハマってる印象。特にマティッチの足元がおぼつかない様子でそこを狙えてる。でもイヘアナチョが判断悪くて良いフィニッシュの形には持っていけてない。ジャスティンは思いきってオルブライトンと絡みながら攻めてほしい Tolkien, “The Hobbit” を読了。『指輪物語』のプレリュードにあたるもの。Amazon.com のレビュー数が1500以上もあり、しかも評価平均値もかなり高いので、期待して読んだのだが、まったくの期待外れだった。ファンタジーというジャンルは私には合わないのかもしれない。ファンタジー探索はとりあえず無期限中断とするつもりだ。いいところがまったくないという印象。批評は省略する。, Miles Davis and Quincy Troupe, “Miles” を読了。マイルス・デイヴィスの自伝と銘打っているが、実際に書いたのは共著者とされているクインシー・トループだ。トループがマイルスやその他数多くの関係者とのインタビューにより得た情報を元にして書かれている。邦訳は『マイルス・デイビス自叙伝』のタイトルで二巻立てで文庫本となって出ている。自伝と銘打っているだけあって、文章はマイルスの言葉で常に一人称で語られている。いわゆる黒人英語で書かれており、また、下品な俗語表現が非常に多く出てくる。読みやすい英語で書かれている。あとがきで共著者のトループも指摘しているが、マイルスのしゃべり方の特徴の一つとして、同じ言葉が文脈次第でまったく別の意味を持つということを挙げることができる。例えば、“motherfucker” という言葉。特に意味もなく間投詞的に用いられることもあれば、人を讃える時に使われもするし、人をけなす時にも使われる。 “bad” という言葉もまた、文字通り「悪い」という意味に使われることもあれば、「素晴らしい」という意味に使われることもある。このように同じ言葉が全く正反対の意味を持ち得る時、理解に困難が生じそうに思われるが、実際にはそのようなことはほとんどない。褒めているのかけなしているのかは文脈により大体は判断がつく。これを面白く思った。話し手の側で意味を明確にするのではなく、曖昧な表現を使っておいて、正しい理解は聞き手に委ねるという言葉のあり方。幾分日本語の特性に似通っているように感じた。本書で扱われているのは、マイルスの少年時代から死の直前までだ。主には、チャーリー・パーカーの時代から1990年ぐらいまでを扱っており、ジャズの歴史のかなりの部分をカバーしている。マイルス・デイヴィスやジャズ全般に興味のある人なら面白く読めるのではないかと思う。私はマイルスの音楽は特別に好きだというわけではないし、彼の人となりについてもほとんど事前の知識を持ち合わせていなかった。しかし、本書を読んでいて、マイルスという人は非常に面白い人だなと感じた。高慢で偉そうで自己中心的な印象のある人だが、その底には彼なりの筋の通ったポリシーのようなものがある。確かに人格的に、全面的に尊敬できるタイプの人ではないにせよ、何か人を納得させるような一貫した価値観を彼は持っている。非常に感銘を受ける考え方も多く、生き方のバイブルとしての機能も本書は部分的には持っている。本書の最後の方でマイルス自身も言っているが、彼は本能に従って生きているというところがある。こういう言い方をすると語弊があるかもしれないが、動物的なところがある。動物というと、人によると下等なイメージを持っているかもしれないが、物の見方次第では、むしろ動物の方が人間よりも高等だと感じられることも多い。本能的に正しい、本来そうあるべきと思われることをすることが出来るようなところが動物にはある。頭でごちゃごちゃ考えるまでもなく、何が正しいのかを本能的に知っている。何かそれに似たものをマイルスに感じるのだ。実際本書を読んでいて、マイルスという人は非常に頭のいい人だなと感じた。数多くの人生経験、人間経験を積んでいるということもあるが、人間洞察が非常に鋭い。ハッとさせられるような人間洞察が本書には数多く見られる。マイルスはミュージシャンであるし音楽を中心に話が回っているため、マイルスにも音楽にも興味のない人にとっては退屈な部分も多いだろうが、それさえクリア出来れば、本書は小説のように読むこともできる。なにしろマイルスという人は強烈な個性を持っており、小説の主人公となる資格は充分過ぎるくらいに持っている。しかも彼の人生はなかなか波乱に富んでいるし、上述したような深い人間洞察もあれば、深い人生洞察や社会洞察も多く見られる。しかも本書に登場する人物は皆実在の人物であるし、描かれている出来事も実際に起こった出来事だ。このことは作品に、フィクションにはない説得力、吸引力を与える。ほろりとするようないい話、可笑しい下世話な話なども多い。それらがマイルス独特の、ある意味ハードボイルドな文体によって語られるため、いっそう効果が引き立っている。非常に面白かった。またいずれ読み返すことになるだろう。, 夏目漱石 『草枕』を読了。というよりも、とりあえず最初から最後まで目を通した。というのは、言葉があまりに難しくて結構端折って読んだからだ。漱石はこの作品では筋なんてものは鼻から作ろうとしてはいないみたいだし、新潮文庫版のあとがきで柄谷行人氏が「立ちどまってそれらの言葉が指示する物や意味を探すべきではない」と言うように、小難しい言葉の数々にはさほどの深い意味があるわけではないのかもしれない。とても読みにくい『草枕』だが、この作品の熱烈なファンは少なくないようだ。有名なところでは、グレン・グールドが本書の英訳版を愛読しており、ラジオ番組で朗読までしている。歌手の宇多田ヒカルさんも愛読書の一つに挙げている。本書の魅力の第一は、第一章に代表されるこの世の生きにくさの洞察にあるだろう。有名な冒頭の数段落なんかは見事と言うしかない。この世はその性質上生きにくいものだ。その生きにくさを人々は互いになすりつけ合っている。それではいつまで経っても生きにくさがなくなるわけがない。この生きにくさから自由になる手段として自律的なものは、芸術と自然だ。芸術を味わい自然を観照することにより、他人に危害を及ぼすことなく生きにくさから逃れることができる。しかしその効果は一時的なものに過ぎず、俗界に舞い戻り人と交われば瞬時にして元の木阿弥となる。とはいえ、この一時の心の掃除は決して無意味なものではない。埃が溜まるままに任せておくのと、溜まれば拭き取りまた溜まればまた拭き取りするのとは当然異なる。いわゆるストレスの解消法として、この芸術と自然の二つはオプションに入れておくことが現代人の嗜みではないかとまで思う。今日読んでいて特に可笑しかったのは次の箇所だ。「世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴(やつ)で埋(うずま)っている。元来何しに世の中へ面(つら)を曝(さら)しているんだか、解(げ)しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのをもって、さも名誉のごとく心得ている。五年も十年も人の臀(しり)に探偵(たんてい)をつけて、人のひる屁(へ)の勘定(かんじょう)をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後(うし)ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。うるさいと云えばなおなお云う。よせと云えばますます云う。分ったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうしてそれが処世の方針だと云う。方針は人々(にんにん)勝手である。ただひったひったと云わずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差(さ)し控(ひか)えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こっちも屁をひるのをもって、こっちの方針とするばかりだ。そうなったら日本も運の尽きだろう。」(青空文庫よりコピペさせてもらいました。)本書には、こういう言い得て妙な、漱石の頭脳と文章力あってこその洞察があちらこちらに埋め込まれている。このことが本書の愛読者が多い大きな理由ではないかと思う。人間が嫌になった時に本書を読めば気持ちが楽になるだろう。, 原田和典著 『世界最高のジャズ』(光文社新書)を読了。ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、チャーリー・パーカー、バド・パウエル、クリフォード・ブラウン、ソニー・ロリンズ、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、ディジー・ガレスピー、ウェス・モンゴメリーといったジャズ・ジャイアントたちから比較的マイナーなジャズ・ミュージシャンまでの人と作品について、個性的な文体で綴ったもの。なかなか読み応えがあった。良書だと思う。400ページ弱のスペースに20人あまりのミュージシャンが取り上げられている。特に前半部を読んで感じたことなのだが、著者は非常に文章がうまい。音楽というものは文章で論じる題材としてはかなりの難物だろうと思うが、なかなか説得力のある文章を書いていて感心した。下手な作家やエッセイストよりはよっぽど文章力があるように思う。良い文章の条件の一つとして「落ち着いていて誇張表現がなく的確であること」を挙げることができるように思う。著者の文章はこの条件に当てはまってはいない。文章がハイになって乗っていて、誇張表現の連続だし、的確性も疑わしい。しかし、音楽というおよそ文章で論じるにはふさわしくなさそうなものを論じているのだから、それはやむをえないような気がする。音楽について的確に論じようとするならば、学術的な文章で書かれた相当分析的なものにならざるを得ないだろうし、そのようなものは一般読者の望むものではない。あまりに誇張表現が続くので、読みながら苦笑を漏らすことも少なくなかったが、ベースにある文章力がとてもしっかりしているので、さほど気になることなく一息に読み終えることが出来た。問題はこの本に書かれていることがどの程度的確なのかということだが、ジャズ初心者の私には今のところ判断することができない。これから本書を参照しつつ音楽に耳を傾けていく中で、本書のより正確な評価を下すことができるようになっていくだろう。この本に書かれていることを一つの基準軸とし、実際に音楽に接しつつ自分の感じ方と本書の記述とを比較対照しながら音楽鑑賞力を養っていけばよい。それで充分に本書を読んだ甲斐はあることになる。, 英語学習について。中学、高校ばかりでなく、大学、大学院と英語を勉強してきたのだが、英語コンプレックスみたいなものと今に至るまでずっと付き合い続けている。特に問題なのは、聞き取りと、書くことと、話すことだ。簡単なことですら、聞き取れないし、書けないし、話せない。これから何年何十年もこのコンプレックスと付き合い続けるのはいかにも進歩がないし、いつになっても同じところに留まっているばかりで次に進むことが出来ない。今年ぐらいでいい加減これとはおさらばしたいものだと思っている。おさらばするには、なんといっても勉強量を大幅に増やさないといけないだろうと思う。勉強時間を増やすのには限界があるので、いかに勉強の質を上げるのかが問題だ。最近見つけた勉強材料に、イギリスBBC放送のウェブサイトにある “BBC Learning English”というコーナーがある。これはBBCが、世界各地の英語学習者のために提供している英語学習番組のようだ。易しすぎず難しすぎずの難易度で、ある程度の実力はあるのだがネイティブレベルの英語は難しすぎるという人には、かなりありがたい教材であると思う。トピックの内容は多岐に渡っており興味深いものが多い。放送録音をMP3形式のデータでダウンロードすることができ、おまけにスクリプトまで手に入る。放送を聴きながら聞き取れなかったところをスクリプトで確認することができる。私の聞き取りの実力はというと、何回か繰り返し聞いていくうちに内容をほとんど理解できるようになるのだが、何度聞いても何と言っているのか聞き取れない部分が何カ所かは残るといった程度の実力だ。それでスクリプトを見て何と言っているのかを確認するのだが、それでも何と言っているのか分からなかったりする。確かにスクリプトに書かれている通りのことが言われているに違いないと思う一方で、本当にこう言っているのか納得ができなかったりする。例えば音楽CDについている歌詞カードの英語には間違いが結構ある。あれはおそらく日本人が耳で聞いて文字に起こしているのだろう。ところが、聞くところによると、英語ネイティブの人でも歌の歌詞を聞き取れないことが多いらしい。これは日本人が日本の歌の歌詞をきちんと聞き取れないのと同じことなのだろう。“BBC Learning English” の番組の中で一般市民の声が挿入されることがある。その部分をスクリプトを見ながら聴いていて、どうもスクリプトが間違っているなと思えるところを一つ発見した。普通の会話ですら、英語ネイティブでもきちんと聞き取れないこともあるのだなと思った。実際のところ、そういう例は決して珍しいことなのではなく、ごく日常的にあることなのではないだろうか。例えば、the と that の違いなんてかなり微妙だろうし、ささっと発音される前置詞などのつなぎ言葉は、ネイティブですらちゃんと聞き取れていないことが多いのではないだろうか。要するに彼等は慣用表現がたっぷりと身についているので、音声的にはきちんと聞き分けてはいなくても、理解のレベルでは問題なく聞き取れているのだろう。というわけで、あまりに細かい部分には拘泥しない方がよいのだろうと思う。もう一つ、ネイティブが話す英語を聴いていて感じるのは、イントネーションが私のイントネーションとは随分違うなということだ。アクセントですら、これまで学校で習ってきたものと違うなと感じることがしばしばある。そういったアクセントやイントネーションの様々なバリエーションにも慣れていく必要があると思う。それには、いわゆるリピーティングやシャドーイングの練習が役に立つだろう。そうやって様々なイントネーションの肌触りを身に沁み込ませる必要があるだろう。効率的な学習とは、弱点の発見と克服とを繰り返すことだ。例えば数学の問題集を解く最大の目的は、自分の弱点、自分に身についていない点を発見することだ。問題集の問題を解いて答え合わせをするだけでは効率的な学習とは言えない。間違えた問題をまずはしっかりと理解し、時をおいてもう一度それに挑むことが必要だ。また解けなければ、もう一度しっかりと理解し、また時をおいて再度取り組む。この過程を習得できるまで続けるのだ。一度習得したと思ったものでも、時が経てば、また解けなくなったりする。だから、自信の無いものはしばらく時をおいてまた解いてみる。そうやって弱点を発見すれば、再度上のようにしてそれを克服する。英語の聞き取りの学習においてもこのことはそのまま当てはまるだろう。自分の聞き取り能力の弱点を発見するためには、スクリプトがあることが重要だ。繰り返し学習が重要なのはまったくそのとおりなのだが、色々な英語をたくさん聴くことも同じく大事なことだ。それには、各人の趣味嗜好に応じて、数々の教材をインターネットを介して簡単に手に入れることができる。BBCからも多数提供されているし、ポッドキャストやオーディオファイル、ビデオファイルのウェブサーチで多数見つかる。私がよく聴いているものの一つに、アメリカのラジオ放送局KCRWが提供しているラジオ番組Bookwormがある。これは、司会者のMichael Silverblattが毎週作家を招いて、主にその作家の近刊書について話をするというものだ。このSilverblattさんは非常に興味深い人だ。著書はわずかしかないみたいなのだが、彼の批評眼は素晴らしく、数多くの作家から敬意を抱かれ慕われているようだ。カート・ヴォネガットから “You are doing a good job, thank you.” と言われたり、ジョン・アップダイクから「あなたみたいな素晴らしい読者と話すことが出来てとても光栄でした」と言われたり、スーザン・ソンタグだったかノーマン・メイラーだったかからは「アメリカで最高の読者」と言われたり、学生時代の師ジョン・バースからは「神童」と言われたりしていた。これはリップサービスではなく、これらの偉大な作家たちは真剣にそのように思っているようだ。Silverblattさんが優れた読者だということはこの番組を聴いていてもよく分かる。毎回毎回非常に内容が濃く、作家は真剣に彼の話に耳を傾け、真剣に答えている。日本人同士の対談にありがちな雑談的なものではまったくなく、敵対的に意見を戦わせるという感じのものでもない。二人で、作品について、文学について、真剣に語り合うという感じのものなのだ。Silverblattさんも自分の意見を率直に語るし、作家の方も話を適当に合わせたりするようなことはせずに自分の意見や感想をストレートに語る。Silverblattさんの話の呼吸がすごく面白い。編集作業がされているのかもしれないが、作家が語ったことに対して相槌を打つこともなく突然次の話題に移ったりする。自分の意見を言う時は正直に率直に説明しきちんと相手に理解してもらおうとするのだが、作家の意見と自分の意見とが合わない場合でも決して相手に議論を吹っかけようとはしない。さっと話題を次に移してしまうだけだ。こういう状況を何度も耳にするにつけ、ほおと感心してしまう。こんな対談の仕方もあるのだなと感心してしまう。どちらの意見が正しいのかなんてことは双方の関心にはなく、自分が思うことを説明し相手が思うことを理解することだけが重要なことなのだと思っているかのようなのだ。作家の方も急に話を変えられてもまったく意に介していないらしい。英米文学界において、Silverblattさんの存在はかなり大きいのではないかと思う。彼の仕事時間の多くは、翌週の対談の準備のために作家の著作を熟読し自分の読みをしっかりと言葉に出来るようにすることに費やされているのだろう。いわば、翌週の授業のための予習を何日もかけてやることを毎週繰り返す、英文科の学生と同じような生活だ。彼はまるで万年英文科の学生をやっているようなものだ。しかし彼の場合、予習をして授業に出るわけではなく、作家と話をする。本を思う存分に読むことが出来て、作家と直接話をすることが出来て、それでお金が貰えるという、彼のような本の虫には堪らない生活だろう。閑話休題。英語学習用に最近時々USENのギャオを利用している。ドキュメンタリー番組に面白いものが多い。動物を扱ったものをいくつか観たが、英語の勉強にもなるし内容も興味深いしで、まことにありがたい。インターネットに接続さえ出来れば、英語教材には事欠かない。異なる興味関心を持った様々な英語学習者の要望に応えられるだけのものが充分にある。まさに、cyber-blissと呼びたい環境だ。NHKの受信料支払いを義務化するのどうのということが政界での懸案となっているようだが、NHKを見ない人にまで「受信料」という名目でお金を支払わせるということはまったくおかしな話ではないかと思う。NHKがどんな番組を放送しているのか気になって最近新聞のテレビ欄をざっと見てみたのだが、教育放送なんかほぼ一日中語学番組をやっているようだった。語学番組なんて、何も毎年毎年新しいものを作らなくても、同じ番組を何年か周期に繰り返し放送すればよさそうなものだし、今の時代DVDやCDが一般家庭に相当に普及しているのだから、なにもテレビやラジオで放送しなくても、DVDやCDにして販売すればいいのではないかと思う。あまりにも無駄が多すぎるような気がする。啓蒙的な番組にしたところで、CDやDVDやネット配信といった媒体で、今や他所からいくらでも手に入れることができる。時代は変わっている。毎月数百円くらいならお情けで払ってもいいかなとは思うけれど、千円以上はちょっと法外だしあんまりだなと思う。そもそも公共放送が必要だということがよく分からないのだが、どうしても必要だというのなら、規模をとことん縮小して維持費をできるだけ低く抑えられるようにするべきではないだろうか。閑話休題。英語を書いたり話したりする練習についてだが、日記を書いたりエッセイを書いたりすることが効率的ではないかと思っている。人と話をしたりメールをしたりするのはあまり効率的ではない。相手からの反応が分かるから、自分の言いたいことがきちんと伝わっているのかどうかを確認するのには役に立つし、こう言ったらどんな反応が返ってくるのかという体験を蓄積することは出来る。というわけで、会話やメールも有効であることは確かなのだが、相手がいるだけに好き勝手に話したり書いたりできないので、英語を使ってアウトプットする練習の量を確保するという意味では効率的ではない。会話やメールはいわば打席に立って投手の投げる球を打つことで、日記やエッセイは素振りをしたりマシンの投げる球を打ったりすることだ。どちらも大事だけれども、後者の方により多くの時間を費やすべきだ。とまあそんなことを考えながらここ数ヶ月を送っているのだが、いまだに何も書いていない。それなりのものが書けたらここに載せようかなとは思っているのだけれど。今年中に英語コンプレックスとおさらばするためには、上に挙げてきたようなことはどうしてもやらなければならないことなので、動機づけのためにもこうして長々と書いてみたわけです。, アーシュラ・K・ル=グウィン 『A Wizard of Earthsea』を読了。いわゆる『ゲド戦記』の第一巻にあたるもの。河合隼雄さんが絶賛されていたので読んでみた。読み物としては面白いが、文学としては粗さが目立ち中途半端なところが多いという印象。もうちょっと深みのあるしっかりとした本かと思っていたのだが、一度読んだ感じではそんな感じの本ではないようだ。とはいえ、読み物としてはなかなか面白い。読みながら胸がどきどきしたり恐怖感を覚えたりし、心が離れることなく最後まで読み通せた。読みながら『ドラゴンクエスト』などのゲームをやりたいなと思った。やはりそういうファンタジー的な世界への憧れというものが、私の心の底の方にはしっかりとあるようだ。時間がもったいないから今のところはやるつもりはないけれど。どうしてファンタジーの世界に惹かれるのか。河合さんはこんなふうに書いている。「子どもたちがファンタジーを好むのは、それが彼らの心にぴったりくるからなのだ。あるいは、彼らの内的世界を表現している、と言ってもいいだろう。人間の内的世界においても、外的世界と同様に、戦いや破壊や救済などのドラマが生じているのである。それがファンタジーとして表現される」(『「子どもの目」からの発想』(講談社+α文庫)、199頁)この説明にはなるほどと納得がいったものだった。ファンタジーが「心にぴったりくる」一方で、現実の世界は心にぴったりとはこないのだろう。この現実の世界での暮らしは、心の持つ本来の性質とは調和していないのだろう。恐怖を覚えたり、心を躍らせたりといった活動を存分にすることを、心は潜在的に望んでいる。鳥が空を飛ぶことを望んでいるのと同じように。空を飛べなくても別に死にはしないが、飛べないとやはり物足りない。この現実の世界にいる限り、心はそんな鳥のようなものだ。5メートルや10メートルくらいの高さに飛び上がることは出来ても、何十秒もしないうちに一度地上に戻ってこなければならない。思う存分に大空を飛び回ることは出来ない。自分が持つ能力を最大限に発揮することができず、物足りなさが残り、どうもすっきりしない。しかしファンタジーの世界では、心はその持つ能力を最大限近くにまで発揮することが出来る。最大限の振幅で上下し動かされることができる。そしてその運動は、現実の世界でのそれとは違って、自然で健康的な感じがする。そんなふうにちょっと考えてみたのだけれど、合っているかどうか自信はない。ファンタジーの中には、人類の破滅や世界の果てや邪悪な存在などの、強烈な印象を与える物事が登場する。そういうものは、人の心の奥底にある根元的なもののメタファーとして機能するような気がする。上で河合さんが示唆しているように、そういうものは人の内的世界にある根元的なものを刺激し動かす。ところで本格的な小説としても楽しむことが出来るファンタジー小説なんてあるのだろうか。何をもって「本格的」と呼んでいるのかはうまく説明できないけれども、メルヴィル級の優れた才能を持った作家が本気でファンタジー小説を書いたらものすごい作品が出来そうな気がするのだが。ファンタジー小説はその性質上、本格的な小説とはなりえないものなのだろうか。ファンタジーにしてかつ本格的な小説を書こうとすれば、相当な構成力が必要だろうし、相当長い小説にならざるをえないような気がする。河合隼雄『ファンタジーを読む』所収の『影との戦い ゲド戦記I』論をさっき読んでみたが、いささかこじつけ的で単純で一面的な解釈のように思える。河合さんの目的は文学批評ではないわけだから、自覚的に単純な解釈を提示しただけなのだろう。読後しばらく興奮が収まらないような圧倒的な魅力とパワーを持ったファンタジー作品を読んでみたいものだ。よさそうなものを探して読んでみたい。, 村上春樹 『海辺のカフカ』(新潮社)を読了。四年ぶりくらいの再読。飽きることなく最後まで熟読出来るだけのものではあったのだが、質的に優れているかというと疑問だ。河合隼雄さんとの対談の中でも、小説を書く時に一貫性のようなものを重要視しないようになってきているというようなことを村上さんがおっしゃっていたが、その路線をかなり押し進めているなという印象を受けた。村上作品には元々そのような傾向があるのだが、本作品ではその傾向がいっそう露骨になってきているように思える。欠陥があるがゆえにどうしようもなく惹きつけるような作品があるというようなことが本作品の中にも書かれてあったし、ある種の長所を引き出すためには別の部分で欠陥が生ぜざるをえないという事情もあるだろう。あちらを立てればこちらが立たずというのは分かるのだが、立っていないこちらだけに注目すれば、やはりこちらも立っていて欲しいと感じるのはやむをえない。というわけで、本作品には数多くの魅力があることを認めるに吝かではないが、気になる欠陥も多くある。まずは、駄洒落につまらないものが多い。村上さんの駄洒落は個人的にかなり好きなのだけれども、本作品に含まれている駄洒落にはセンスがないなと思われるものが目立った。ホシノ君の感情と思考の動きにリアリティがない。ホシノ君は狂言回しに過ぎず、血が通っていない。カフカ君と大島さん、カフカ君と佐伯さん、カフカ君とさくらとがそれぞれ予定調和的に理解し合っているようなところがあること。話がうますぎるというか、超人的で現実味がないというか。ストーリーの辻褄合わせの仕方が稚拙で都合が良すぎること。本作品はギリシャ悲劇を下敷きの一部としていることから、この欠陥は幾分和らげられているとはいえ、やはりちょっと白けてしまうところはある。カーネル・サンダーズだとか猫との会話だとかは、いわゆる「デウス・エクス・マキナ」として半ば確信犯的に利用されているのだろうが、この手法を敢えて使うことに何か建設的な効果があるようには思えないし、使わないで済むのであればやはり無いに越したことは無かったように思う。過剰な性描写。『ノルウェイの森』だとか『国境の南、太陽の西』などの性描写は何となくではあれそれなりの必然性を感じたものだが、本作品の性描写のうちの少なくとも幾つかには必然性が感じられなかった。私の読みが甘いだけなのかもしれないが、そのように感じたので一応書き留めておく。佐伯さんはどうして死ななければならなかったのか、カフカ少年が殺意を抱くまでに父親を憎んでいた背景には具体的にはどのような事情があったのか、ナカタさんはどうして死ななければならなかったのか、といったことがきちんと説明されていない。少なくとも直接的には。それらのことはあたかも読者が前提として何の説明もなく受け入れなければならないこととして設定されているように感じられる。もちろんある程度はそのような想定へと読者を誘導するような書き方をされているわけではあるが。好意的に見るならば(そして、おそらくはこの見方は正しい見方なのではないかと思うのだが)、佐伯さんとナカタさんが死ななければならなかった理由、カフカ少年が父親を憎んでいた理由は、記述的に説明することのできないことなのだろう。読者にほとんど無条件にそうと想定してもらうしかないといった性質のものなのだろう。カフカ君と父親との間のことについては、いちいち描写すると冗長になるし、そのような親子関係の例は現実においても決して珍しくない故にわざわざ描写しなくとも読者が前提としてすんなりと受け容れられるものであるということもあるだろう。カフカ君は漱石の「坑夫」に関して次のような感想を持った。「本を読み終わってなんだか不思議な気持ちがしました。この小説はいったいなにを言いたいんだろうって。でもなんていうのかな、そういう『なにを言いたいのかわからない』という部分が不思議に心に残るんだ。うまく説明できないけれど」(上、182)また、大島さんはシューベルトのピアノソナタニ長調に関して次のような意見を述べる。「ある種の不完全さを持った作品は、不完全であるが故に人間の心を強く引きつける---少なくともある種の人間の心を強く引きつける」(上、190-91)村上さんはおそらく、この作品もそういった類の、曖昧で不完全な性質を持っていてもやむをえないというような考え方をされていたのではないかという気がする。意図的に曖昧で不完全なものにしようとしたというわけではないにしても。この作品の一大モチーフは、なんといっても「親に愛されなかった子どもたち」だろう。村上作品の登場人物たちは、初期作品から一貫してそういうタイプの登場人物であったと見ることも出来るし、村上さん自身も、「この世で安心して生きるための基盤といったものを親から与えてもらえなかった子どもたちというテーマを一貫して追究してきました」というようなことをどこかで書かれていたように思う(この記憶に自信なし)。カフカ君、ナカタさん、ホシノ君は明確にそういった人物として描かれているし、彼らの少年時代についてはそれぞれ比較的詳しめに具体的に記述されている。このモチーフはかつての村上作品ではいわば裏モチーフとして密やかに提示されていただけだが、本作品では露骨に提示されている。村上さんの内面告白の度がこれまでになく高くなっているように思えるし、幾分大げさな表現を用いれば、本作品は村上さんの「信仰告白(confession of faith)」であるとも言えそうだ。かつて、スコット・フィッツジェラルドが『夜はやさし』について述べたように。そのように考えれば、本作品をどのように捉えるべきか、腹にすっと収まりやすくなるような気もする。つまり、信仰というものは一貫したものではなく断片的なものであり、その断片としての個々の信仰告白が作品中に散りばめられているのだという意味で。そう考えれば、本作品は全体としての森には構わずに、個々の木に注意を向けるようにして読まれるべき作品なのかもしれない。印象的で強く私に訴えかけてくる木は何本もあった。木1:「しかしナカタさんは肉親に冷淡にされても、べつにつらいとも思わなかった。ひとりでいることに馴れていたし、誰かにかまわれたり親切にされたりするとむしろ緊張した」(上、370)こういうところは私にもある。例えば自分より目上の人(例えば、先生や上司など)に名前を呼ばれるだけで、申し訳ないなという気持ちがしたりする。人から親切にされたり優しくされたりすることを恐れるようなところもある。木2:「ねえ佐伯さん、あなたにはよくわかっていないんだ。僕が戻る世界なんてどこにもないんです。僕は生まれてこのかた、誰かにほんとうに愛されたり求められたりした覚えがありません。自分自身のほかに誰に頼ればいいのかもわかりません。あなたのいう『もとの生活』なんて、僕にとってはなんの意味もないんです」(下、378)これは、「この世」と「あの世」の間の世界にやってきているカフカ少年に対して、佐伯さんが「この世」に戻るように勧めるのに答えて言うカフカ少年の言葉だ。単純化してまとめてしまうと、親に本当の意味で愛されなかった人はこの世で生きる充足感を覚えるのは難しいということを言っているのだろう。このようなことは心理学の領域でもほぼ定説のように言われていることだと思うが、この節を読んでこのことがしっくりと腑に落ちる思いがした。これは無味乾燥な学術的な記述にはない、文学表現の持つ優れた力だ。先に「質的に優れているかというと疑問だ」と書いたが、こうして考えてみると、村上作品の中では決して優れた方だとは言えないまでも、小説全体の水準と照らし合わせるならば、やはり相当優れた作品だということになるだろう。, 先日村上春樹さんの古いエッセイ集をまとめて読み返した。そのうちの一つ『村上朝日堂の逆襲』(新潮文庫)に所収のエッセイ「ジャンクの時代」(239-42)について。村上さんが、日本に来たばかりの22歳のアメリカ人に「日本のテレビ番組についてどう思う?」と訊くと、彼はこう答えたという。「そうねえ、ジョークとしてみれば面白いんじゃないかな」これを受けて村上さんは考える。「現在の世の中を騒がしている物事の約六十五パーセントくらいは『ジョークとしてみれば面白いな』というエリアにすっぽりと収まってしまいそうな気がする」さらには、「かくかように世界にはありとあらゆる形状とサイズを有する不思議な物事があふれているし、我々はいちいちそれらの本来的な成立過程にかかわりあうよりは---そんなことやっていたらとても体がもたないから---『ジョークとしては面白い』というあたりでたいていの物事をやりすごしてしまっているような気がする。それが良いことなのか良くないことなのか僕にはよくわからないけれど、そうする以外にこの『ジャンク(ゴミ)の時代』を有効に生き延びる方法はないんじゃないかという気はしないでもない。つまり本当に自分にとって興味のあることだけを自分の力で深く掘り下げるように努力をし、それ以外のジャンクはジョークとしてスキップしちゃうわけである。」これを読んで成る程その通りだと思ったわけだが、今考えると、いまだかつて「ジャンクの時代」でない時代があったのだろうかという疑問が沸いてくる。そもそも世界というものは「ジャンク」な性質を持っているものなのではないかと。今の時代が特に問題であるのは、「ジャンク」な情報が垂れ流し的に大量にあちらから勝手にやってくるということなのではないだろうか。軽薄で無反省なジャーナリズムが、ジャンクな情報を選り好んで大量に供給してくる。そういった類の情報供給媒体に触れないようにすればある程度はジャンクな情報から逃れることができるわけだが、一方ではそういったジャンクな情報に無防備にさらされ強く影響を受けている人たちが大量に出現しているわけで、結局のところその影響から完全に自由になることはもはや不可能な状況だ。私とてそのジャーナリズムの影響を間違いなく受けているし、ジャンクな情報というものは私の卑しい好奇心を強く刺激しもするわけで、強い自制心を要求される。ジョークとして見れば面白いなというくらいでスキップしてしまうしかこの時代を有効に生き延びる方法はないとは言っても、それで片付けるにはあまりに事が大きすぎる「ジョーク」も多い。どこかの国の大統領なんかまるで人間ジョークではないかとすら思われるし、どこかの国の政治家たちもジョークみたいな人が多いように思う。なんてことを言いながらも、私は、この地球上で起こっている重大な出来事の多くを、ジョークとみなしているとまではいかないまでも、関心を持つのにはあまりに馬鹿らしすぎると考えて、あまり深く思い考えないようにしている。いつか書こう書こうと思っていたのだが、あの9月11日の出来事に関するこんな思い出がある。私はその当時まだ学生だった。9月11日といえば夏期休暇中であったのだが、この出来事にはかなり激しい衝撃を受けたものだった。これは大変なことになったぞと考えた。やがて夏期休暇が終わりいざ後期の授業が始まるという頃、こんな出来事が起こった後に暢気に授業なんてやっていられるのだろうか、これは休講になるだろうな、と思いながら大学に向かったわけだったのだが、もちろん授業は通常通りに行われた。授業なんてやっている場合でないと考えたのは、私が大げさに考えすぎただけだったのだと今となっては思うのだが、その最初の授業での先生の発言にはいささかならず驚かされた。「そういえばなにやらアメリカの方でありましたけれど、あんなんどーでもええって感じで。ほっほっほっ。」といった感じの発言だった。私はこの発言にいささかの軽蔑心を覚えたのだったが、時が経つと共に、なるほどな、これこそ合理的で洗練された生き方なのかもしれないなと思うようにすらなったのだった。この出来事で数多くの人が亡くなり、さらに多くの人たちが悲しみに苛まれたわけであるから、笑って片付けるのはあまりに軽薄であると言える。そうとはいえ、アフリカなどで飢餓に苦しんでいる人たちのことを、今どれだけの人が気にかけているのだろうかとも思うわけであるし、これからこの世に生まれてくる人たちの苦しみのことは気にかけなくていいのだろうかだとか、我々が日々食している動物や植物のこと、殺生をしている害虫たちのことは考えなくてもいいのだろうかという疑問もある。結局のところ、極言してしまえば、人はみな「他人のことなどかまっておれない」というラインで日々の生活を送っていると言えるのではないだろうか。件の先生の考え方は、おそらくこの世のものはすべてフィクションだというものではないだろうかという気がする。小説の世界はもちろんフィクションであるし、このいわゆる現実世界もまたフィクションである。ただ自分という存在は、痛みを感じもすれば辛いと思ったり悲しいと思ったりもする。この自分という存在ばかりは異質のものであって、フィクションと片付けるのは難しいように思う。しかしそれ以外のものはいわばフィクションである。同じフィクションであれば、良質のフィクションに気を掛けたいと思うし、退屈なフィクションは気にしないに限る。件の先生の考え方は、意識的であれ無意識的であれ、つまるところ、こういったところだったのでなかろうか。それにしても、「ほっほっほっ。」と得意げにするのはやはりどうかなとは思う。, 河合隼雄、村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)を読了。5年ほど前に読んだときには内容をほとんど理解できなかったのだが、今回はかなり理解することが出来た。河合さんの著書を初期の頃のものを含めてまとまった量を読んできたからだろう。世の中にはいわゆる「アンチ河合」と称せられる人たちがいるようだが、彼等は河合氏のどういうところに反発しているのだろうか。例えば、後期の河合氏は宗教づいてきたという人たちがいる。確かにある一時期から後の河合氏は、「たましい」ということを盛んに語られるようになった。恐らくそういうところから「宗教づいてきた」となると思うのだが、河合氏のそれは決して宗教的なものではない。それを宗教的と感じるのは、河合氏の考え方を真に理解していないからだと思う。本書の中で河合氏自身も語られているが、河合氏の「倫理」は言葉で説明することの難しいものだ。河合氏がどういう「倫理」を持っているのかを理解するのには、彼の数々の著書を吟読することにより、ぼんやりと、言葉には出来ない形で理解するしかない。言葉では表すことができないのだが確乎として存在するものはある。それを無理に言葉にしてしまうと、その言葉はその確乎としたものからずれざるを得ない。村上: (前略)しかし、その中でも、モラリティーということについて、すごく大事に考えざるをえないという気がぼくはするんです。さっき河合先生は、見えない一線ということをおっしゃっていましたが。河合: いま言われているような意味でのモラルをどう考えるかということは、ものすごく言語化がむずかしいんですね。村上: でも、それを言語化できないというのがわれわれのひとつの問題点なのではないですか。河合: それは絶対に問題ですよ。ぼくは、ほんとはそれはぼくらの義務であると思っているんです。村上: しかし、現実問題として、言語化できない一線を持っておられることで、河合先生は多くの人を治癒しているのですね。河合: それはそうです。しかし、それはぼくの場合は経験則みたいなものが多いですね。だから、治療と言っても普通と逆みたいなところがあって、自分が道徳的な律を持ってがんばっているというのではなくて、ぼくの目の前におられる人が、本質的に意味のあることを考えておられるうちに、お互いの間でだんだん線ができてくるというところがあります。(後略)(215-16)現代においては、正しいモラルというものは画一的な杓子定規なものではありえない。いかなる状況においても真のモラルを発揮することの出来る人というのは、高度なバランス感覚を備えた人のことである。その時その時の自分の状況、相手の状況、周りの状況などを、鋭敏に的確に即座に判断することができてその判断に忠実に行動することの出来る人のことをいうのではないだろうか。それを出来るようになるのには、深い人間洞察力がどうしても必要だし、性急に判断を下さない慎重さ、公正心、自己を反省することができる心的傾向などが必要だろう。河合: (前略)ぼくがずるさと言っているのは、もう少し違う言い方をすると、人間の思想とか、政治的立場とか、そういうものを論理的整合性だけで守ろうとするのはもう終わりだ、というのがぼくの考え方なのです。人間はものすごく矛盾しているんだから、いかなる矛盾を自分が抱えているかということを基礎に据えてものを言っていく、それは外見的に見るとやっぱりずるいわけですね。(74)河合: (前略)矛盾を恐れないとか、統合性ということはもうあまり問題にしない。バランスは問題にするけれども・・・ということをわたしはいま考えているんです。(77)この考えは公に発言をするのにはなかなか思い切りが要るものなのではないかと思うが、納得の出来る考えだ。この考えに拠ると、「あなたの言っていることは矛盾していませんか?」と相手を論難することはできないわけだ。しかし、こう論難された時に「いえいえ、私は矛盾はあってもいいと思っているんです」なんて答えようものなら、相手が話の分からない人であれば、呆れられるか馬鹿にされるかが落ちというもので、なかなか難しいものだ。本書と他の河合氏の対談ものとを比べて顕著だなと思われる特徴は、河合氏が普段なら話さないような本音を多く語っていると思われることだ。実際の対談は笑いに満ちたものであったとのことだが、本書中に載せられている分には冗談が非常に少ない。村上さんも他では口にしないような深いところにある本音を多く語っている。こう言うと安っぽくなるが、「二人の本物が真剣勝負で語り合っている」という趣がある。対談というものは、対談者の考え方を示す有効な表現形態である。エッセイや論文といったワンマンな表現形態では表現し得ないことを表現することのできるものだ。対話者がある発言をしそれに対してどのような反応をするのかというところに、その人独自の個性なり考え方なりが現れる。河合氏が上の引用で述べられている「見えない一線」なり言葉に出来ないモラルなりを表現するのには、こういう表現形態は非常に有効であるように思えるし、こういう表現形態でなければ表現しえないとも言えそうだ。もちろん、対話者がそれ相応の人でなければならないわけで、一人の一存で思うとおりにはならないものなのだが。もう一つ有効な表現形態はやはり小説というものだろう。小説という表現形態は、一人の作家によって複数の対話者を措定し、彼等に対話をさせることができる。さらにこの対話者は人間に限らず、あらゆる事物を「対話者」として利用することができる。もちろん、よい作家はここで言う「対話者」を頭で恣意的に作り出したりはしない。深く内省し、意識と無意識とを含めた自己と語り合いながら小説世界を作り上げていくわけだ。その作家の自己が洗練されたものであればあるほど、また創作の際の作家の集中度・芸術的誠実度が高ければ高いほど、出来上がる作品は優れたものとなる。もちろん、そこには文章力や表現力などの技術的な側面を関係してくるわけであるが。, 黒澤明の『酔いどれ天使』と『椿三十郎』を観た。あまり面白くなかったので覚え書きだけ。『酔いどれ天使』の方は見応えはあったが大して良い作品ではない。『椿三十郎』の方はつまらない。, 河合隼雄『中空構造日本の深層』(中公文庫)を読了。小難しそうな題名だが、中味の方はとりたてて難解だというわけではない。前述の『文章読本』も本書も読んだのは数週間も前のことで、今本書の感想を書くにあたって線を引いた箇所を読み直してみたのだが、『文章読本』と関連する記述を見つけた。本書は河合さんの著書の例に漏れず、考えさせられる記述が多かったのだが逐一コメントするわけにはいかないので、ここでは『文章読本』と関連する箇所に焦点を絞ることにしたい。河合氏は現在の日本では「強力な父性の出現が望まれている」(70)と指摘する。しかしながら具体的にどうすればよいのかというと、「そこには名案も近道もな」く、「おそらくこれに対するある程度の答えを出すのに、百年くらいはかかるであろう」(70-71)と述べる。百年かかってやっとある程度の答えしか出ないとは途方もない話のようで、これはあまりに慎重に過ぎる発言なのではないかとも思われるが、これは河合氏の豊かな経験と思索とに裏打ちされた誠実な実感なのだろう。河合氏はさらに続けて、「現在に生きるわれわれとしては、その発見に至るプロセスにできる限り参画することによって満足すべきであろうが、その手段として、われわれは『意識化への努力』と言うことをあげるべきであろう」(71)と述べる。続いて河合氏は、谷崎が指摘したような日本語および日本文化の特質について触れたのち、次のように言う。「言語によって事象を明確に把握し意識化すること、このことこそ既に述べてきた西洋的な父性の中核にあることと言ってよいのではなかろうか。従って、意識化の努力をすることこそ、父性を取り入れてゆく重要な課題と取り組むことになるのだが、それを急ぎすぎることは、日本の良さを破壊することになるというジレンマを、われわれはよく知っておく必要がある。」(71)ここまでの論旨を単純化してまとめると、(1)現在の日本では強力な父性の出現が望まれている、(2)そのためには「意識化への努力」が必要だ、(3)「意識化への努力」とは、これまでの日本的な曖昧さに安住することから一歩踏み出して、西洋的な分析的で精密な言語表現法に拠った事象の意識化を図ることだ、(4)しかし、そうすることは日本の良さを破壊することに繋がる、ということになるだろう。これはまさにジレンマであり、だからこそ「これに対するある程度の答えを出すのに、百年くらいはかかるであろう」ということにもなるのだろう。次いで河合氏は、江藤淳の興味深い発言を引用する。「戦後三十有余年を経たいま、日本人が使っている言葉は、日本人の心の底から自然流露的に出てくる言葉ではなくて、ある人為的なフィクションのフィルターをかけられた言葉になってしまっているのではないだろうか、という疑いにとりつかれたのです。」(72)この江藤の発言について河合氏は、「現在の日本人が使っている言葉の底の浅さを指摘されたことは真に卓見と思う」(74)と同感の意を表明し、さらに江藤の論を進めて、そのような現状は「日本人自身が今、どのような言語を用いるべきかに深い迷いをもっているからであると考えるべきではなかろうか」と筆者独自の見解を述べる。戦後、欧米の文化が急速に日本に侵入してきた。その影響をわれわれ日本人は強く受けてきているわけだが、長年にわたって培われた日本人の心性がそう簡単に変わることはない。われわれの中に深く根を下ろしている心性とは異質な欧米の文化に晒されて、現在の日本人はその異質な二者の間の齟齬感に無意識ながらに悩まされていて、それが数々の問題として表出しているのだというのだろう。国際化は時代の必然でありこれをなくすことはできない。よって欧米文化への適応を図り、「父性化」への道を探るしか道はなく、言語面においても文化面においても、今の時代に即した国際化を図るのが必要だと河合氏も考えているようだ。とは言っても、「ある程度の答えを出すのに、百年くらいはかかるであろう」と言うように、河合氏も明確な指針を持っているわけではなく、一つの試みの方向として上のことを指摘したに過ぎない。いずれにせよ、いたずらに日本語的な表現法に走ることには慎重であった方がよさそうだ。, 谷崎潤一郎『文章読本』(中公文庫)を再読。高校生の時に読んで以来の再読。示唆されることが多かった。谷崎はどうやら英語にも堪能らしく、英語の特徴と日本語の特徴とを熟知した日本随一の文章家として、日本語の特徴を生かした文章とはいかなるものかを説き、それを勧めている。しかもその論に説得力がある。谷崎は、西洋風の精密な描写をよしとしない。むしろ、「あまりはっきりさせようとせぬこと」、「意味のつながりに間隙を置くこと」(177)を説く。その理由は次のとおりだ。「もし皆さんが、どこまでも意味の正確を追い、緻密を求めて已まないのであったら、結局どんな言葉でも満足されないでありましょう。ですから、それよりは、多少意味のぼんやりした言葉を使って、あとを読者の想像や理解に委ねた方が、賢明だと云うことになります。」(95)この直前では、「文章のコツは、『言葉や文字で表現できることと出来ないこととの限界を知り、その限界内に止まること』」とも述べている。これは新鮮な指摘だった。言葉の不完全さを補う方法としては例えば比喩表現などを挙げることができるが、この比喩表現も「読者の想像や理解」に頼る一つの方法だと云える。表現をぼんやりとさせること、厳密な表現よりはより意味の広い表現を使うこともまた、「読者の想像や理解」に頼る方法だったとは盲点だった。日本語は元来語彙の少ない言語だった。限られた語彙で多くのことを表現することができる言語だった。最近『徒然草』を拾い読みしているのだが、『徒然草』を読んでいて、谷崎の言わんとしていることがよく実感できる。高校生の頃、古文の勉強をしていて、「をかし」やら「あわれ」やらの意味があまりにたくさんあるのに辟易したものだったが、そもそも「をかし」や「あわれ」の意味を分析してより精密な意味で理解するという態度が間違っているのではないだろうか。「をかし」はあくまでも「をかし」であって、「興味深い」でもなければ、「情趣が感じられる」でもなく、「美しい。優美である」でもない。一番正しい読み方は、「をかし」の持つ意味範囲をすべて理解して、その中で自分なりに意味を味わい取ることだろう。日本語は以心伝心の言語であるし、日本の文化も以心伝心の文化だ。「をかし」と言えば、相手も「をかし」と理解する。それはあまり精密な理解の仕方ではないかもしれないが、より精密な言葉で意志疎通を図ったところで、理解の精密度が上がるとは限らない。かえって誤解の度が増すだけに終わることも多いだろう。「すごい」や「面白い」や「美しい」や「とても」などの簡単な日本語ばかりを連発して話したり書いたりしていると、自分の表現力の幼稚さに嫌気がさしたりするが、これはあながち悪いことではないのかもしれない。もちろん精密な言葉を用いることによってより的確かつ正確に事を表現することができるのであれば精密な言葉を用いるに越したことはないが、事がぼんやりとしているのを無理に精密な言葉を当てはめて表現することはよくないだろうし、ぴったりとした表現がないのであれば、意味の広い表現を用いてあとは「読者の想像と理解」に委ねるのがよいだろう。語彙力を高めて表現の幅を広げることも大事だが、より精密な言葉を知りながらもあえて簡単な表現を使うという逆方向の視点を持っていることも大事だ。本書は、単に日本語について示唆を得られるだけでなく、日本文化全般についての示唆を得るのにも優れた良書だった。, ついでに、先日観た小津安二郎の『秋刀魚の秋』の感想も少し。なんといっても素晴らしかったのは東野英治郎の演技だ。東野演じる「ひょうたん」(あだ名)は昔は教師をしていたのだが、今では売れないうどん屋の店主をやっている。生活は楽ではなく粗末な家に住んでおり、かつての教え子たちに同情されて資金援助までされる体たらくとなっている。彼がかつての教え子達から招待されてやってきたクラス会の場で食事をするシーンは圧巻だった。教え子たちはみんな社会で成功している人たちでお金の余裕もあり、そのクラス会の食事はなかなか豪勢なものだった。これまで見たこともないような食事を目の前にしてひょうたんは食い意地が張る。お酒は勧められるままに次々に飲み干し、食事は次から次へと口に放り込む。美味しいものにこんなに豊富にありつけて幸せこの上ないという様子で、その表情は無邪気な幸福感に溢れている。箸で摘まんだ食べ物を口の中に放り込み口を開けてむしゃむしゃと咀嚼するのだが、その様が不思議なことに全然汚らしくない。普通口を開けて咀嚼しようものなら汚らしい印象を与えるに決まっているのだが、どういうわけか東野の演技ではまったくそれがないのだ。むしろどうやったらこんな食べ方が出来るのだろうと感心しながら見入ってしまうくらいだった。作品としても面白かった。品のよいユーモアに満ちた良質のエンターテイメント作品だ。, 山田洋次監督『男はつらいよ30 花も嵐も寅次郎』を観た。笠智衆がどんな演技をしているのかを見てみたくて借りてきたのだが、二度ばかりしか登場せず、しかもその二度ともほんの少ししゃべるだけだった。作品としては特に見るべきところはなく、最後に少しほんのり出来るくらいしか取り柄はない。後味はとてもよいのだけれど。その中で唯一輝いていたのは田中裕子さんの演技だった。田中さん演じるヒロインはモダンガール的に浮わついたところが多少あるのだが、その浮わつき方には決して野卑なところはなく自然な感じがあって悪くなかった。決して上品ではないのだが野卑でもない不思議なバランスな感じがした。このヒロインのしゃべり方は妙に色っぽい。しかもしゃべる時の表情までもが色っぽい。しかしながらそこにはわざとらしさはない。わざとらしくなるぎりぎりのところで踏みとどまっている感じがする。こんな演技は初めて見たような気がする。スクリーンに映っている田中さんを見ながら私は、彼女はまだ20歳にもなっていないかななどと年齢を想像していたのだったが、後で調べてみるとこの時すでに27歳くらいだったということが分かり驚いた。現在の年齢にも驚いたし、旦那は本作品で競演している沢田研二さんだということを知りまた驚いた。, 大谷幸三『ヒジュラに会う』(ちくま文庫)を読了。学生時代にひと月半程の間インドを旅したことがある。デリーからダラムサラへと北上する列車の中である奇妙な出来事に出くわした。列車の進行方向に向かって右上隅の位置に進行方向に伸びる寝台に、頭を進行方向に向けて私は横たわっていた。時は夜だったように思う。目をつむり、眠ろうと努めていた。車両の後ろ方向(つまり、私の足下の方向)からなにやらにぎやかな音が聞こえてくる。楽器かなにかを鳴らしていたのか、歌を歌っていたのか、今では定かには覚えていない。また物乞いが来たんだろうと思い、私はそのまま寝たふりをすることにした。その音は次第に私のいる位置へと近づいてくる。そして私の真横で止まった。トントンと誰かが私の肩をたたく。私は目を開けて横を向く。寝台は高い位置にあるので、私はその人の顔を目の前に見下ろす恰好となった。薄汚い恰好をして白い髭をぼうぼうに伸ばした老人であろうという私の予想は間違っていた。私の目の前にあったのは30代から40代くらいと見られるぎょろっとしたおかまの顔だった。それは女性と見間違えるような女性らしいたおやかな顔だちではなく、ひと目で男だとわかるゴツゴツとした骨格のおかまの顔だった。確か顔には派手な化粧をしていて、インド人女性と同じように華やかな露出度の高い女装をしていた。肉付きのよい体格をしているが、女性らしいしなやかさはなく、彼が男であることを物語る骨格をしていた。一瞬私は心の中でたじろいだ。これは何かの冗談だろうという心持ちがした。施しを求める彼に対して、私は施しを与えるつもりはないと手振りで意思表示をして就寝体勢に向き直ろうとした。するとその男は「なんだとこの野郎」というような勢いで怒りの形相を見せ、私の寝台に上がってこようとした。おいおい、ちょっと待てよ、と思いながら私は今一体何が起こっているのかの状況確認をしようと、周りの乗客の方に目を向けた。私の寝台の横向いの座席に座っていた40歳くらいの男が笑いながら、片手で5の数字を示しつつ、施しを与えてやるように合図をした。とにかく寝台に上がってこられるのは堪らないので私は財布の中から5ルピーを取り出し、彼に与えようとした。そのお札を見た彼は、「なんだこの野郎、ふざけんじゃねえぞてめえ」との怒りの形相でまたもや私の寝台に上がってこようとする。周りの乗客達はそれを見て笑い転げている。一体何が起こっているのだと、私はまた先程の男性の方に目で助け船を求める。男はまた片手で5の数字を示して、もう5ルピーやれと合図してくれる。納得できないながらも背に腹はかえられず、合わせて10ルピーをその物乞いに渡してやると、「分かればいいんだ、分かれば」という様子で受け取ってさっさと去っていった。普段はポーカーフェースの私もさすがにこの時ばかりは面食らってしまい、不思議の形相で、説明を求めようと他の乗客たちの方に目を向けたのだが、彼等はただ笑っているだけで説明してくれようとはしなかった。どうやらこれはよくあるいつものことらしかった。それにしてもこれは物乞いなんかではない。恐喝だ。そんな恐喝を、笑って見過ごすとは一体どういうことなのだろう。この時の出来事は長年のあいだ私の中で、説明のつかない奇妙な出来事として残り続けた。その謎は、昨年の末ごろだったろうか、村上春樹氏の『月曜日は最悪だとみんなは言うけれど』を読んだ時にようやくにして氷解した。『月曜日は』の中に、ジョン・アーヴィングについてのある英語記事の翻訳が収録されている。アーヴィングに『サーカスの息子』というインドを舞台にした長編小説がある。それに「ヒジラ」というある集団が登場するらしいのだが、ダラムサラ行きの列車の中で私を恐喝したあの男はどうやらそのヒジラの一人らしかった。大谷幸三『ヒジュラに会う』は、そのヒジュラという集団に関心を持つようになった著者がヒジュラの謎に迫ろうと試みた軌跡を記すノンフィクション作品だ。筆者がヒジュラに初めて出会うところから、彼等に関心を持ちその秘密を探ろうとインド各地のヒジュラに取材を続ける彼の歩みと同時並行する形で本書は進んでいく。筆者は文章力に優れインドについての知識も豊富で、読み応えのある本に仕上がっている。だが、ヒジュラとは何なのかという答えは結局見つからなかったように見える。結局のところヒジュラと呼ばれたり自称する人たちを同じ一つの定義で括ることには無理があり、僧に喩えることができるような宗教的なヒジュラもいれば、半陰陽に生まれついたり性同一性障害に悩む人たちがヒジュラになることによってこの世への適応の場を見つけようとした場合もあれば、生活のためにやむなくヒジュラになった人もいれば、ホモセクシャルでヒジュラになった人もいる。私が列車の中で出会ったヒジュラは、デリーあたりのヒジュラの典型であったようだ。施しを求めるのに何故か堂々として偉そうな態度をしている。相手が施しを断れば性的なモーションをかけて、何が何でも金を出させようとする。そして決して諦めない。どこかで結婚式があると知れば結婚式の場へと出かけていく。どこかで赤ん坊が生まれたと知れば、その家に出かけていく。そしてほとんど恐喝の形で、強引に喜捨を支払わせる。相手が払おうとしなければ、ガヤガヤと騒々しく楽器を鳴らしたり歌を歌ったり踊ったりする。時には素っ裸になって踊りさえする。そういった嫌がらせをして、払うまで決して帰ろうとはしない。名目上は結婚や出産の祝福のようなのだが、それにしてもおかしな祝福の仕方だ。こんなヒジュラたちは一般のインド人からは部外者としてほとんど黙殺されて笑いものにされているらしい。カーストの枠からもはみ出しているようだ。彼等がやってきて喜捨を求めれば、厄介な奴らが来た、ああ運が悪いなと諦めて、渋々でも喜捨を払って追っ払うしかない。おそらく誰も恐喝罪で訴えようとはしない。おそらくは警察も取り締まろうとはしないのだろう。ヒジュラたちはずっと昔からインドにいたらしいのだが、彼等についての文献は皆無に等しい状態だという。このことからもいかに彼等がインド社会から無視されてきたかが分かる。最後に一つだけ引用を。「ヒジュラには一般の人間とは違う、何か特別の生活はないのですか」という筆者の問いに対して、デリーのヒジュラファミリーの長チャマンはこう答える。「人の人生に、特別に変わったことなどあるはずがないでしょう。神を信じ、仕事に励み、休息を得たとき、自らの生涯を神に感謝する。誰でも同じですよ」(58), 黒澤明『野良犬』を観た。黒澤映画を観るのは随分久しぶりで、本数もさほど観ているわけではないのだが、世間の評価通りの素晴らしい監督だと感じた。本作はなんといってもエンターテイメントとして面白く、緊迫感が全編を漲っており、最初から最後まで気が抜けることがなかった。基本はエンターテイメントなのだが、ただのエンターテイメントでは終わっていない。黒澤の人間を見る目、世の中を見る目の鋭さを感じさせる部分も多く見られた。この作品の中で描かれている数日間は猛暑だった。この暑さは作品の筋とほとんど何も関係がなく、筋に影響を与えてはいない。黒澤はこの暑さの演出にこだわったらしいが、その努力はまさに実を結んでいると言える。今暑さは筋に関係がないと言ったが、まったく関係がないと言うのは誤りだろう。暑いだとか寒いだとかいったことは、人の感情や行動に大いに影響しているものだ。これは自分の身を振り返ってみれば誰にも明らかなことだろう。こんなにも重要な気温というものが重要な要素として描かれている作品は小説にも映画にも実に少ないのではないだろうか。暑いですねえ、暑いなあ、というようなセリフを我々は日常生活において実にしばしば口にしたり心の中で思ったりするものだが、それに比較して文学や映画の作品の中でそれに触れられることは実に少ない。それに触れない作品は、人間の感情や行動に大きな影響を与えている暑さ寒さの感覚を作品世界から除外し、その分だけ作品を平板化していると言える。本作品はその盲点を突き、しかもそれを強調した形で提示している。この作品から暑さに関する要素をすべて切り取り、作品の筋はそのまま残したとしても、まったく問題なくその筋は成立するだろう。だが、そうすればこの作品の味は多少減じられることだろう。「多少」と言ったのはこの作品の味の総和が非常に多いものであるから、少なからずの分量の味が減じたところで、味の総和から見ればその減分は「多少」と呼ぶのが相応しいだろうからである。10が3になれば「少なからず」だが、100が93になったのであれば「多少」と呼ぶのが相応しい。あと、大げさな演技がなかったのも気に入った。私はどうも大げさな演技や、いかにも演劇的な演出といったものが嫌いで、テレビドラマなどは一シーンを見るだけでうんざりとして逃げるようにしてテレビのある部屋から退散してしまう。だがこの作品にはそういう嫌な演劇性が微塵もないといっていいくらいで、そういうものを目指した黒澤のセンスに私は共感するし、そういう演劇性を拝しつつもこれだけの完成度の作品を作った彼の手腕に感服する。そういう演劇性は、一般に作品を作りやすくする安易な手段として無自覚に利用されているものと感じられるからだ。他にもこの作品の良いところは沢山あるが、その説明は省略します。, 映画『ヒトラー』(Hitler A Career)を観た。ヒトラーの生い立ちから死までを辿るドキュメンタリー。ヒトラーという人にはこれまであまり関心をもったことがなく、どういった人なのかほとんど知らずにいたのだが、この映画を観ていて、やはり精神的にかなり偏ったところのあった人なのだなと感じた。精神病というところまで行っていたかどうかはよく分からないけれども。この映画を観た翌日の朝だったろうか、私が一国の首相だったら到底その責任の重圧に耐えられないだろうなという感覚とともに目を覚ました。一国の首相というのは考えてみれば大変な責任感のある仕事だ。日本の首相なら、一億三千万ばかりの日本国民の生活を左右するわけだ。もちろんそれに足して他国の国民の生活をもいくばかりかは左右する。アメリカの大統領の責任の重圧はもっと重いはずだろう。そんな重圧のかかる職に自ら望んで就こうとするとはどういうことなのか。就任した時に嬉しそうな顔を見せるのはどうしたことなのか。アメリカ大統領のあの暢気な顔は一体どういったわけなのか。一国の首相になろうという人間の精神は、やはりある特殊な方向に偏り硬化してしまっているのだろう。責任の重さをいつも感じていてはとても安らかには生活できないわけだから、責任感を鈍化させなければやっていられない。それを鈍化させる代わりに、私は一国の首相なんだぞ、とても名誉ある職についているんだ、私は偉い人間なんだ、という優越感を増幅させているのかもしれない。一国の首相たるもの、自分が国民の生活を左右しているのだという責任感を常に強く感じていていただきたい、などということはもちろん言わない。職業柄、脳天気になるのはやむを得ないことで、それは必要悪でもあるだろう。ただしそれを抜きにして考えると、当然感じるべき責任感の重圧と比較してあまりにも少ししかそれを感じていないように見受けられることに関して、少なからず奇妙な気持ちを覚えるのだ。『ヒトラー』に話を戻す。観ていて特に印象的だったことの一つは、ドイツ国民(の一部)がヒトラーを英雄崇拝するその激しさだ。今の日本でも、例えばコンサート会場などのように、有名人とそのファンが集うところでは同じような光景が見られる。例えば空港でたまたま有名人に出くわしたとき、別にそのファンでない人でも彼を見て興奮したりするのではないだろうか。有名人は輝いて見える、一般庶民にはないオーラがあるという話はよく聞く話であるし、実際そういうものなのだろう。この輝きやオーラといったものは、何も有名人その人が持っているものなのではなく、見る人にそう感じられるということに過ぎないのだが。例えば今の選挙運動では、立候補者が有権者に握手をして回るというのが重要な活動の一つになっている。この握手って一体なんなんだろう? 自民党が圧勝したこの前の総選挙の時に、ある候補者が電車の中で乗客に握手をして回っている写真が新聞に掲載されていた。この人は一体何を考えているのだろうと少なからずあきれながらも、仮に私がその場所にいて握手を求められたとしたらどう応対しただろうかと想像した。おそらく嫌々ながらも手を差し出しただろうという気がした。だいたい見も知らぬ人と握手なんてしたくないし、そんな欲得ずくの握手ならなおさらだ。ところが、選挙運動の光景を映すテレビ映像には、候補者と嬉しそうに握手をする有権者の姿が実にしばしば映し出されている。握手できて心から喜んでいるのか、内心では嫌だなあと思いながらも相手に気を遣って笑顔を作っているのか、あるいは側にテレビカメラがあるのが分かっていてテレビに出られるかもしれないと思って嬉しいのか、まあ人それぞれだろうけれども、それにしてもこの光景は見ていてどうも奇妙な感じを受ける。『ヒトラー』の中でヒトラーと嬉しそうに握手をするドイツ人の大人や子供達が映し出されていた。これを見ながら私は、上に挙げたような選挙運動の一光景を思い浮かべたわけだが、ヒトラーと握手をした人たちの中では、おそらくその後ヒトラー崇拝の気分が固まったのではなかろうかと思ったのだった。握手をした瞬間、その相手が特別な人になる。この効果は一体何なのか。もう一つ思ったこと。あの戦争(第二次世界大戦)は一部の有福者の欲得が引き起こした出来事だということ。一部の人間の欲得が、他人をかくまでの不幸に陥れることがあるのだということ。そしてそれは世の習いですらあるということ。足るを知るということがどうして出来ないのか。さらには類推で、現代文明をこれ以上に発展させる必要はあるのかということも思った。私は歴史のことはほとんど知らないのであくまでも私にはこう思われるというだけで、こうだと言うつもりはないのだが、あの戦争を引き起こしたのは何もヒトラーや彼に組する一部の人たちの責任なのではなく、ヒトラーに共鳴し英雄視した数多くの一般ドイツ人たちの責任も無視できないだろう。その前にベルサイユ条約がありドイツ国民が貧困に喘いでいたというのもあるが、有名人を見たり握手をしたりしたというだけで興奮するといった性質や、自己中心的であるといった性質などの人間一般の性質もまた、あの戦争を引き起こすのに大きく寄与していたように思う。そういった人間一般の性質は別にそれ自体では悪いものではなく、その中には愛すべき性質も多い。だが、無判断にそのような性質に流されてしまった場合には、大きな悲劇を招くことがある。例えば自己中心性を例にとろう。自己中心的であることは必ずしも悪いことではないし、遠くの他人よりも近くの家族や友人を大切にすることは美徳であるとすら言える。ただしそれには限度があり、度が過ぎればそれを鋭敏に感じ取る感知能力を持っているということは大事だということだ。普段は人間的な自然な性質に身を任せながらも、時々で自分と自分の周りの状況を客観視して公正な判断をするということが大事なのではないか。この映画のタイトルは『ヒトラー』(Hitler A Career)であるが、ヒトラーを描いたドキュメンタリーであるとするのは一面的で偏った見方であり、ヒトラーとそれにまつわる人たちのドキュメンタリーとみる方がより適切であろう。タイトルとしては“A Hitler and Men”などを思いつくが、これだとセンセーショナルだということになるだろうか。仮にこのようなタイトルで発表されたとしてもセンセーショナルとされないような世の中こそ洗練されていると思うのだが。(蛇足ですが、“a Hitler”は「ヒトラーのような人」の意です。), 先に涙に触れたので、涙について思うところを一つ。涙に騙されてはいけない。涙というものはやはりインパクトがあるし強い強制力を持っている。人を泣かせたら悪いことをしたなと思ってしまいがちなものだし、子供の兄弟喧嘩なんかでもどちらかが泣いたところで喧嘩がひと段落つくものだろう。それは、涙というものが普通自分の意志によって出すもののできないことであり、いわば本能から湧き出てきた自然な反応であるとみなされるからだろう。ところが人の涙にもいろいろと種類のあるものであり、純粋な涙もあれば歪んだ涙もありわがままな涙もあれば独りよがりな涙もあるものだ。人の涙に接した時にいやあな思いをすることがあるが、それはそういう涙の欺瞞であったり空空しさであったりを感じる時であり、それが持つ水戸黄門の印籠のような強制力と相俟って、いやあな思いを感じることになるのだ。それぞれの涙がどういう意味を持っているのかを、出来るだけ多くの人が、出来るだけ正しく感じ取れるものであって欲しいものだと思う。, 小津安二郎『東京物語』を観た。噂に聞いていた通りのいい映画だったというのが第一番の表面的な感想なのだが、少し反省してみるとリアリティという面ではどうなのだろうという気がする。前にも述べたような気がするが、リアリティがあるかないのかなどは二次的なものであり感動できるものなら素直に感動しておくがよいとも思うのだが、騙されて感動するというのはどんなものかという気はやはりするのだ。どんな感動であれ、多かれ少なかれ騙されているのだと言おうと思えば言えるだろう。騙されていない感動なんてものはないということはおそらく真実なのだろう。普遍的な真理などというものがないのと同様、普遍的な感動なんてものはないわけだし、個人的絶対的真理というものが主観的なものであるのと同様、個人的絶対的感動も主観的なものでしかありえない。とはいうもののやはり程度の違いというものはあり、騙され度の高い感動に対してはやはり防御的であるべきなのではないだろうか。私が『東京物語』から受けた感動が騙され度の高い感動だったとは思わないが、ちょっと騙されているっぽいなというところはある。それは笠智衆と東山千栄子がそれぞれ演じる平山周吉ととみとが良い人過ぎるということだ。物語は周吉ととみが尾道の自宅から息子と娘が暮らす東京へと遊びに出かけるところから始まる。長男の幸一(山村聡)、長女の志げ(杉村春子)はそれぞれ家庭を持ち、幸一は医者、志げは美容師として忙しい生活を送っている。そこに親の周吉ととみとがやってきて、表面的には一応歓迎している風を装うが実のところは厄介に思っている。周吉ととみはすでに60代の後半から70代くらいにはなっており、東京の都会に来るのも生まれて初めてというのもあり、誰かの案内なしに二人で観光に出かけるというわけにもいかない。長男夫婦も長女夫婦も時間を作ることが出来ず、親を観光に連れに出ることもできない。それで周吉ととみは、わざわざ尾道から東京まで出てきたというのに、一日中家の中に閉じこもって尾道にいるのと変わらない日々を過ごしているなんてことになっている。そんな中でただ一人、戦争からまだ帰ってこない(おそらく戦死した)次男の妻紀子(原節子)だけが、わざわざ仕事を休んで二人を東京見物に連れていく。二人は自分たちが息子と娘から邪魔に思われていることを察して早々に東京を発つことになるわけだが、彼らが自分たちを邪魔に思っていることに気づいている素振りなどはちっとも見せず、いろいろとお世話になってありがたいという様子である。そんな二人の様子をずっと見せられていて、二人はなんて人がよいのだろうという印象を持つと同時に、歳のせいで大分頭の働きが鈍感になっているのではなかろうかという印象も受ける。ところが、東京を去り大阪の次男の家に泊まっている時にだったか、長男も長女も昔はもっと優しい子どもだったが・・・などと二人でしみじみと語る。ここで初めて私は、二人とも子どもたちが自分たちに対して冷たいと感じていたんだとはっきりと知ることになり、二人はあながちお人好しではなかったんだな、ちゃんとまともな感受性を維持していたんだなと知ることになったのだった。とはいえ、この時に二人が出した結論は、子供たちが冷たくはなったものの、自分たちはまだ幸せな方だ、幸せなんだということだった。普通の感覚からすれば、二人きりになった時に、子供たちの冷たさについて文句を言ったりしてもよさそうなものなのだが、二人はそういった穏やかな形での不平、というか、感想を漏らすだけだ。もちろんカメラに写っていないところでそういったようなことを言っていたのかもしれないが、カメラに写っていない以上、カメラの陰ででも言っていないのだろうと想定するのが自然というか、観る者としてはそういう前提でこの映画を観て味わうということに当然なり、覚える感想もそういった前提に基づくものとなる。私が先に騙されているような気がすると言ったのは、この前提がどうも怪しいものに思えるということで、この感動を素直に受け取ってよいものかと、疑わしい気持ちになるのだ。それはともかくとして、この映画はとてもいい映画だと思うし見所感じ所もそこかしこにある。その中でも特に強く心に感じるところのあったシーンは、母危篤の報に接し見舞いにやってきた長女の志げが、母が翌朝まで持たないだろうと知った瞬間にわっと声を上げて泣き出すシーンだ。志げは、この映画の中でいわば一番の悪役で、両親に対して最も冷たい人間だ。その彼女が、母がまもなく死ぬと知ったときにわっと泣き出す。わっと泣き出したからと言って、彼女がお母さん思いの優しい女性かと言えばそれは間違っていて、葬式が済むや否や母の形見にあれやこれやをおくれと言うは、葬式の済んだその日のうちに残された父を置いてさっさと東京に帰ってしまうは、という有り様だ。こういったところは、小津安二郎のよく考えているところで、やはり優れた感覚の持ち主だなと感じるところであるし、杉村春子も実にうまく演じていると思う。親が死ぬと知って泣いたところで決して親思いだということにはならない。涙の意味などそう単純なものではないし、涙は身勝手なものですらある。涙なんて現金なものだ。かといって、志ずが身勝手な親不孝ものだと単純に片付けられるというわけでもなく、最後に原節子演じる紀子が言うように、人は歳を取るにつれて自分のことをしか考えることが出来なくなっていくものであって、世の中というものはそういうものなのだ。小津安二郎が最も心を込めて描いたものの一つは、世の中のそういった哀しい成り立ちなのではなかろうかと、私の限られた小津体験からは、そのように思われる。人間なんて身勝手で自分勝手なものばかりだと感じながらも、小津はそれを温かい目で見ている。人間がもっと他人に優しくなれたらいいのにと願いながらもそれが難しいことだと分かっていて、自分もそのような人間のうちの一人だという自覚もある。そんな人々に共感(同類意識)を覚えながらも同時に哀しく思いもするという、様々な感情が複雑に混じり合ったものが小津にはある。, ここ数ヶ月の間にNHKカセット、ラジオ深夜便選集『語りつぐ戦争体験』のシリーズを4本くらい聴いている。第二次世界大戦を自らの身をもって体験した方々の体験談を録音したテープだ。これを聴くと戦争なんて絶対に起こしてはいけないと思うし、実際に戦争を起こしている人たちはなんて無知で浅ましいのだろうと思ってしまう。私は戦争を体験していない世代の人間であるから、戦争の悲惨さというものがどんなものなのかということは、普段の生活をしている限りでは感じることは出来ないし想像することもしない。このカセットを聴くと、語り部達にとっては半世紀近くも昔のあの戦争がいまだに過去のものとはならず現実のものとして心の中に生き生きとあることが分かるし、彼等の語りには迫真性があり、あたかもファンタジー小説を読む無垢な少年少女たちのように、私は、時に恐怖し時に感動しつつ彼等の語りに聴き入った。こういう貴重な生の証言はやはり語り伝えて行かなければならないものであると私は言いたい。特にアメリカの政治家さんたちには是非聞いてもらいたいものだし、日本の政治家さんたちにも聞いてもらいたいものだ。ゴルフなんてやっている暇があったら・・・なんて言い方までついしてみたくなる。私はこれからも折に触れてこれらのテープを繰り返し聞いていこうと思っている。彼等戦争体験者達にとっては、戦争体験が彼等の後の人生にまで強い影響を与え続けている。あの戦争が彼等の後の人生の方向を決める働きをしている。その彼等の強い体験と比べれば、私なんて何も経験していないといってもいいくらいではないかという気すらする。結局のところ、個人の広い意味での経験がその人の人生の筋道を決めると言ってもよく、その経験が生易しいものであると浅薄な生き方になり勝ちだ。生き方が地盤にしっかりと根を下ろして折らず、その地盤も軟弱な沼地にすぎないものとなってしまう。とはいえその地盤も堅固な岩塊のようなものであるのが望ましいとは一概には言えず、浅薄な生き方にしたところであながち悪いこととも言い切れない。結局なんら結論的なことは言えないわけだが、彼等の話を聞いていて、自分の暮らし方は浅薄だなと感じたのだったし、浅薄でないものにしたいと感じたのだった。これは私の好みの問題であるし、それが私の好みであると分かっているのであれば、やはりそのように持っていくべきだろう。, 『優雅な生活が最高の復讐である』(カルヴィン・トムキンズ著、青山南訳)を読了。フィッツジェラルドの『夜はやさし』の主人公ダイヴァー夫妻のモデルとして有名な、ジェラルドとサラのマーフィー夫妻の短い伝記。マーフィー夫妻はアメリカ人なのだが、アメリカで「ジャズエイジ」とも「狂騒の10年」とも呼ばれた1920年代をフランスの地中海沿岸地域リヴィエラで過ごした。米ドルに対するフランの貨幣価値が暴落していたこともあって、当時のフランスにはアメリカから、そしてその他の国からも多くの芸術家たちがやってきていた。ジェラルド・マーフィーは現代絵画の作品も遺しており画家と呼ぶことも一応可能ではあるが、遺した作品の数はごく少ない。彼の父は実業家だったのだが、彼には家業を継ぐつもりなどさらさらなく、またアメリカにいると煩わしいことが多いというのでフランスにやってきたのだった。フランスでは父親の財産を頼りに、時々絵を描いてはいたものの、他に仕事をすることもなく浜辺でくつろいだり友人を家に招いたりしながら日々を過ごすというのんきな有閑階級の生活を送っていた。そんなマーフィー夫妻の元に数多くの芸術家たちが集まった。ピカソ、ドス・パソス、フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、コール・ポーター、ドロシー・パーカーといった面々だ。他にも、ストラヴィンスキーやエリック・サティなどとも付き合いがあった。どうしてこんなにも芸術家たちが彼等のもとに集まったのか。それは彼等には人を惹きつける特別な魅力があったからだという。それがどのような魅力だったのか、マーフィー夫妻とは一体どのような人たちだったのかということを知りたいという期待を持って本書を読んでみたのだが、期待は裏切られた。本書を読んでいる限りでは、彼等のどういうところに魅力があるのかが分からなかった。彼等の暮らしがどういうものだったのかを垣間見るくらいの役には立ったけれども。本書は、翻訳を読んだ限りの印象では、凡庸に思える。突っ込みが足りずお座なりで、著者がマーフィー夫妻に肩入れしている感じがある。また、翻訳の方もあまり感心しなかった。文章は確かに読みやすいのだけれども、ところどころにぎこちなさがあるし、表面的でお座なりな文章に感じた。だがこれは原文自体がそうなのかもしれない。また、手紙文や会話文に色つやがなく単調でのっぺらぼうな感じになっているし、妙にひらがなが多いのも気になった。分かりやすく内容を伝えるという点においては優れた翻訳と言えるのかもしれないが、名文を期待していただけに少しがっかりした。.

ラーメン 食べた あと バナナ, 日本 景観 汚い, ウルトラマン ハッピーバッグ 2021, Abcマート グランドステージ 大阪, ポケモンセンター カイロス ぬいぐるみ, 美女と野獣 英語 和訳, マイ ディア フレンド 中国 最終回ネタバレ, 工場 きつい 2ch,